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            1、第一話 雪が煌めく  ...
            
                
                
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                          空一面をおおう雲が、鈍く、重い。
  鉛色……あるいは薄墨色とも呼べるそれは、高い尖塔《せんとう》の上で手を伸ばせば、触れる事ができるのではないかと思えるほど低く。奇妙な質量を持って、静まり返ったラフラダの王城をつつんでいた。
  ゲオルグは人にしては希有な紫黒色《しこくしょく》の髪を指先で払うと、目の前にたつ青年を見た。
  細い肩、細い腕。
  平均的な男より明らかに劣る、けれど女にしてはあまりにも鋭く引き締まり、高くしなやかにのびた身は、青年の眼前にそびえる石造りの城壁と、身を包む黒一色という服装のせいで、更に頼りなく。はためくコートの裾にあおられ、青年は今にもよろめきそうに見えた。
  ――いつまで、立っているつもりなのだろう。
  心の中でつぶやいては見るものの、言葉にはならない。
  いや、問いかけても良かったのだろうが、青年の背中がすべての言葉を拒絶《きょぜつ》しているようで、何も言い出せなかった。
  ひときわ強く、風が吹いた。
  春の陽気を持っているわけもなく、まして、夏のように清涼感を与えるでもない。ただ無情に乾ききった寒風が全身をなぶり、ゲオルグは風で落ちかけた軍帽を機械的な動きでもって押さえた。
  と、青年が動いた。
  ゆっくりと腕を虚空にさしのべ、舞うような動きで振り返った。
  「雪だ」
  事実を確認するようにもう一度同じ言葉をつぶやくと、青年はまっすぐに視線をゲオルグに向けた。
  冷たく凍れる氷碧色《ひょうへきしょく》の瞳が、ゲオルグの複雑な彩を持つ黄金の瞳に触れた。
  「雪だぞ、ゲオルグ」
  美よりもむしろ英明さと冷厳《れいげん》さを感じさせる線の細い面立ちに、あるかなしかの微笑を浮かべて青年はゲオルグに歩み寄った。そしていっそう高く腕を天にさしのべると、かかとを中心に勢いよく回った。
  極北の国特有の、コートをかねる軍服の長い裾《すそ》が、機敏な青年の動きにとらわれ空中でひるがえった。
  ゲオルグはそんな青年の行動に露骨に顔をしかめると、低く吐き捨てるような声で言葉を紡いだ。
  「雪ぐらいプロスアキアにも降りましょう」
  単語の一つ一つに不可視の毒が込られているゲオルグの言葉に、青年は顔をしかめたが、すぐに舞い降りる雪華《せっか》へ意識をやると、陶然とした表情でそのひとひらに指を伸ばして答えた。
  「違うな。プロスアキアの雪はこんなに美しくはない。もっと重くて、小さくて、風が白く染まるほど多く降る」
  少女とも少年ともつかない高い声が空気を綺羅らかに震わせる。
  それはプロスアキアの方が、この国より寒気が強く乾燥しているからです、と答えかけてやめた。
  言ったとして、青年がこの馬鹿げた行動と情動を止めることはないと知っていたからだ。
  そんなゲオルグの考えなど露ほどもしらず、青年は舞い降りる雪に指先を伸ばし、溶けては消える刹那の結晶を求め続けていた。
  「ああ、すぐに消えてしまう」
  感嘆と無念さが入り交じった声で言うと、青年はかすかに首を傾けてゲオルグの方を見やった。
  「まるで同じ雪ではないようだ。なぜこの様に消えてしまうのだ」
  「疾風に集う雪は戒《いまし》めの雪。天に舞う雪は浄化の雪。罪を犯さず生きる人類は居りますまい。ならば、すぐに消えるは道理でしょう」
  「積もりはしないか」
  すねるような口調の青年に、当てつけるようにため息をつくと首を横に振ってみせた。
  「恐らくは長く降ることも。この地上はもとより、天上に近い空さえも人々の毒気に満たされているでしょうから」
  「ふ、なるほどな」
  ひとひらの雪が音も立てず、ゲオルグの頬に降りる。
  ゲオルグが疎ましげに指先を伸ばし、結晶を払おうとすると、なぜか青年はその手を押さえ、自らの指を差し伸ばす。
  だが、ゲオルグの肌の上では不思議と消えず残っていた浄化の証は、青年の指先が触れた瞬間に消えてしまった。
  「どうやら魔とされる「破滅を叫ぶ者《クライヤー》」の血を引くお前より、私の方が汚れている様だね」
  刹那の間だけ悲しげな表情を浮かべた青年を見やり、ゲオルグは目を細めた。
  先ほどの言葉は、いわば、「破滅を叫ぶ者《クライヤー》」よりも世界の理を知らない、無知な人間どもに知られている伝承を口にしただけであって、真実ではない。
  綿雪よりも粉雪の方が水分子の結合が強い。故に容易に溶けにくく、また、乾燥した気象でしか発生しない。
  人の言う天上《パンティオン》、「破滅を叫ぶ者《クライヤー》」の始祖とされる「堕ちたる使徒《デルデケアス》」が、遙か太古に神に成り変わり支配しようとした宇宙から見れば、どんな雪が発生するのか、どのように振り積もるのかすらも簡単に見抜くことができる。
  また、人間より幾ばくか低い血圧で生命維持できる「破滅を叫ぶ者《クライヤー》」の方が、体温は数度低い。
  つまり雪が溶けなかったのもゲオルグが善に近いなどというたわけた理由などではなく、科学的な根拠あってのことだった。
  しかし未だ科学技術を、この世の真理と法則を認識できない人間に説明しても理解できまい。
  人の中では聡明と思えるこの青年も例外ではない。
  結局、この雪の化身たる青年は自分の知る世界の理を全てを理解し得ないし、自分には青年が信じる世界の理を理解して受け入れる事はできない。
  同じ世界を見る事はなく、同じ知識を分け合う事もない。
  ただ、物質として存在するだけである。
  低俗で無知な人間など、知る価値もない。
  そう割り切れたなら、いや、そう割り切れたままの自分でいれたならば、どれほど簡単に全てを処理できたであろう。
  自問してみるものの答えはなく、ただ、不可解ないらだちだけがわだかまる。
  「無理もない」
  突如沈黙と思考の壁を突き破り、投げつけられた青年の高く澄んだ声に、ゲオルグは頬を叩かれたようにうつむき加減の顔を上げた。
  「お前より私の方が汚れているのだ。天上の神たちは、とっくにお見通しらしいな」
  暗く陰鬱な、けれど隠すことのない笑みのままに言うと、自分よりいくらか高いゲオルグの顔を見上げた。
  「見よ、この静まり返った王宮を!」
  人の上に立つに相応しい威厳と玲瓏《れいろう》さに満ちた声で言われ、ゲオルグは思わず振り返った。
  雪に負けずとも劣らない、白い大理石のタイルでおおわれた壁や、流れるような曲線で彫り込まれた装飾たち。そして、光を受け輝く白銀の窓枠や、窓を飾る豪奢《ごうしゃ》なビロ-ドのカーテン。
  洗練された美を集め尽くした城には、けれど生気が……いや、そこに住んでいるべき王族や貴族達の存在が抜け落ちていた。
  ゲオルグと青年が立つ壮麗な噴水を抱く中庭すら例外ではなく、ただ水面をたたく噴水の水音と甲高い鳥の声以外何者の声もない。
  しかしゲオルグは驚かない。
  いや、何を驚く必要があったろう。
  今やこの国の王宮は制圧され、かつての主を失ったのだから。
  ただ一人の青年が率いる、ただ一つの部隊の為に。
  リュシエル・ブラウ・ガーレンフェルド。
  雪とも白銀ともつかない髪に凍えきった氷碧の瞳もつ、冬の化身じみたこの青年の、軍人とは思えないほど華奢な腕によって、この宮殿の総ては支配されつくしたのだ。
  その一部始終を副官として見てきた自分が、再び結果である空っぽの王宮を見たからとて、何を驚く必要があったろう。
  「彼らから平穏な未来を奪ったのは私だ。プロスアキア帝国ではない。私こそが彼らの憎しみを受けるべき存在、憎しみのきっかけを与えた存在なのだ」
  一度だけ喉を震わせると、広大な敷地に隔てられ離宮となっている小さな館を……王族と呼ばれた物達が大勢の兵士達に見張られ、監禁されている館をにらみつけていた。
  「リュシエル、様」
  いつのまにうつむいたのだろう。氷碧の瞳の奥は伺い知れず、ただ陰惨《いんさん》な笑みに形取られた唇だけがかすかに震えていた。
  苛立ち、後悔、自己嫌悪……あるいは焦燥。
  どの感情がリュシエルの心中にあるのだろうか。
  ゲオルグには、わからない。
  沈黙の時間がどれほど続いただろう。
  深く鋭いため息を放ち、リュシエルは不意に顔を上げた。
  笑みが、変わっていた。
  最早陰惨《いんさん》な笑みではない。最初と同じように、いや、それ以上に無垢で美しい、少女のような笑みを浮かべ、リュシエルは雪を眺めていた。
  冷たいものが背中を駆け抜け、頭の血が足へと落ちていく感覚に捕らわれゲオルグは全身を堅くした。
  (また、だ)
  先ほどまでの影りある感情を、自身の汚れを、全てため息にして捨てたのだ。と言わんばかりの表情を浮かべるリュシエルを見やり、ゲオルグはきつく眉根をよせた
  ――リュシエルの変貌《へんぼう》が、現実逃避であれば良かったろうに。
  苦々しい気持ちのまま心中でつぶやく。
  逃避ではないのだ。そして、偽りでも。
  「あぁそれにしても、なんて美しい雪なのだろう」
  激しい内心の狼狽《ろうばい》と戦い続けるゲオルグとは対照的に、リュシエルは性別を感じさせない顔に汚れなき笑みを浮かべていた。
  「エリシエルにも、見せてあげたい」
  最愛にして、ただ一つの聖域である妹の名を魔法の旋律のように繰り返すと、リュシエルは軽快な声で笑い、無邪気な幼児と同じ仕草で雪の中を舞い始めた。
  ゲオルグは額に手を当て、きつく瞳を閉ざした。
  (どっちなのだ)
  それは始まりから二人の間に横たわる問い。
  未だに答のでぬ、答の欠片すらない永遠の問い。
  知りたいのは、ただ一つ。
  ――リュシエル。
  本当のお前は、その根元はいったい何処に存在するのだ。
  握りしめた拳の中で、爪が手のひらに浅い傷を付け始めていた。
  けれどゲオルグは動くことも、まして、瞳をひらき無垢なる青年へと変化したリュシエルと対峙する事もできず、ただそこに立ちつくしていた。